being mindful

食いしん坊で瞑想、ヨガ、ピラティス 好き。みんなの心に栄養を。

mindfulness のルーツ、ブッダの考えを学ぶ

あまりここには書かないけれど、今も寝る前にベッドの中で、また起きた後に座位で、しばしばヴィッパサナー瞑想をやっている。

 

ヴィッパサナーとは、詳細を観察するという意味で、読んで字のごとく、自分を細かく観察すること。mindfulness の元はこの瞑想法なんです。

 

先日、より理解を深めたいという思いから、この瞑想のルーツであるブッダの本を読んだけど、いかんせん意味が分かりにくい。そこで、ブッダ関連で何冊か本を書いているスマナサーラ長老の講演会をみつけ、ふらりと行ってみたところ、腑に落ちたことがあったのでメモ。

 

人間の感覚器としては、眼、耳、鼻、舌、身(身体で触れること)の五感だけでなく、そこに”意”が含まれて6つあるとされている。

 

意とは、五感を通じて入ってきた情報に対する心の反応のこと。感情ともいうかな。これ、ただの感覚器扱いなんです笑。ブッダは神でもなんでもなくて、私たちと同じ人間だったわけだけど、この考え方には感心だなぁ。哲学者だ。

 

五感を通して瞬間ごとに外から入ってくる情報に対して、忙しく反応する”意”という6つ目の感覚器。

 

この意そのものは、その時々に五感からの情報によって違うのに、なぜか普遍的なものだと勘違いして、”わたし”を形成しているのだと思い込んでるけど、それはただの思い込みなんだなぁと腑に落ちた説明だった。

 

世の中の多くの人は、私の性格とか、私という人間とか…そんな言い方でよく言うけれど、それは単に瞬間瞬間に浮かんでは消える感情を普遍的な傾向だととらえて、自分に当てはめているだけかぁ…これを自我と定義してるみたい。そう思うと、自我なんてそもそも実在してないものをそれぞれが作り出してるだけやなぁって腑に落ちた。

 

さらには実際のところ、人間の五感なんて怪しいもんだ。同じものを見ても同じように見えてないことは多々あるし、同じものを食べても隣の人と同じ味に感じてるかと言われると違うはず。そうなると、五感を通して入ってくる情報を元に経験している世界は、あくまでも”わたしの”世界。それを絶対的事実と勘違いするのも、冷静に考えればおかしなこと。

 

先日は、とある会議に出た後に、人によってその結論が全く違ったことがとっても印象に残ったのだけど、それもこういうことだな。同じものを見て聞いて経験しても、全く違う結論に聞こえてるわけだ。笑

 

さらには、いつもヨガをした後の横になった瞑想はやたら集中力が高まるのだけど、呼吸にあわせて”身”の感覚が研ぎ澄まされているからなのだろうと感じる。このとき、心は静か。意 の働きは止まってる感じなんだよね。

 

そんなんわけで、第6感の”意”をこう捉えると、その場かぎりで手放そうという気持ちが働く。

 

ほとんどの場合、相手は私とは全く違う感情を持ってます。そして、相手も私と同じように、流れとして瞬間瞬間に感情はあるけれど、それ自体がその人だと決めつけないようにしよう。

 

みんなの意、感情は、私のと同じく、どんどん変化していくんだもの。私だって、恥ずかしい感情を持ってしまったことを忘れたいことは多々あるし、他の人の感情が見えた時も、その人自身とはジャッジせず、忘れましょう。

 

瞑想の前に、ステキな音色を聴かせてくれるティンシャを買いました。高くて安らぐ音が10秒くらい響きます。これで毎日瞑想しようと思います。

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